過去演出公演の情報、フラヤー、舞台写真、当日パンフレットの文章を掲載しております。

2016


演劇集団 砂地『Hamlet』

vs W・シェイクスピア @SPACE 雑遊


■出演■

木戸邑弥
名塚佳織
藤波瞬平(Studio Life)

岩野未知
松本光生(演劇ユニット ハツビロコウ)
今國雅彦(TEAM HANDY)
梅村綾子(文学座)
酒井和哉
伊澤玲(北区AKT STAGE)
小林涼太(ピストンズ)

高川裕也

 

協力:キューブ/マグネタイズ/Studio Life/演劇ユニットハツビロコウ/TEAM HANDY/文学座/フォセット・コンシェルジュ/北区AKT STAGE/ピストンズ/松本デザイン室/La Sens/クロスオーバー/青年団/C-COM舞台装置/地林坊・太田篤哉

主催・企画・制作:演劇集団 砂地

「Hamlet」の上演を巡って

 

私は、実は同じ事を何度もこのスペースに書いているのだが、こういったスペースに、文章を書くことが実はとても苦手だ。下記に連ねられた文章をみて「嘘つけ!!」という声があがるかもしれないが、実は本当に正直に苦手で、いっそ無くていいのになと思っている。でも、せっかくあるスペースがスカスカだと、逆になんにも考えてないように見られるのが「怖い」ので、ついついいろいろ書き連ねてしまうのだ、その結果、抽象的かつ冗長な内容で、なおかつ「文字数が多くなれば字が小さくなり、読みにくくなり、結果あんまり読んでもらえなくなって、かえっていいかもしれない」という私のひねくれた自意識が発動させた狙いも密かにある。そんなもんで、まあ、実際のところ作品をご観劇いただくのには、読もうが読むまいが関係のない文章なのであります。〜以下〜はみなさまをけむにまこうという文章が延々と続いているのです。

ただただ、皆様に演出者としてお伝えしたいことは

本日はご来場いただきましたこと、大変に感謝しております。なにか、「こういうものを見た」と少しでも記憶に残る公演になれるように、精一杯努めさせていただきます。

ということなのです。本当にありがとうございます。

 

〜以下〜

 

さて、それでも、暗い客電の下客席で、家路の電車内で、年末の大掃除で、この文書を読むことになる方もいらっしゃるでしょうし、何かの記念になるかもしれないという可能性から、一生懸命、上演にあたってのわたしの所感を書いてみようと思う。

2016年という時代状況の中でW・シェイクスピア(今年は没後400年という節目の年であるらしい)原作の「ハムレット」という戯曲を上演する運びになったのだが。言うまでもなく、「ハムレット」には今までに様々な上演形態、演出コンセプトの「ハムレット」があり、また、様々なハムレット俳優が存在し、その異同が様々な考察を産む戯曲であり、「どう読んでも良いよ」という懐の大きさを孕んでいると同時に、「ははぁ、こう読んだか」という演出ないしはカンパニーの手つきがすぐにバレてしまう戯曲であるように思う。また、戯曲内に「芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を向けること、」(河合祥一郎訳)といったセリフがあるが、これほどまでに様々なヴァリエーションが存在すると、「ハムレット」を【解釈する】という行為自体が、「ハムレット」という一つの巨大な鏡に“私”ないしは“私達”自身を映し出す事になるように私には思えてくる。さて、この数多の肖像を映し出してきた鏡は、今回このタイミングで、我々のどんな姿を“我々に”映し出すことになるのか?

 

近年、特にストリンドベリの「令嬢ジュリー」(2011)を上演してきた頃から、わたしの演劇集団 砂地での作品創作においての探求心は、言うなれば「近代の行方」についての思索であった。現時点について、近代後期、後期型近代、「自己を近代化していく段階」様々な呼称があるが、近代と呼ばれる時代が、達成ないしは成熟していく世界の中で、ベックやギデンズの語彙を借りれば「再帰的」な行動様式をとる現代人についての思索ある。

この議論での近代化とは、個人が因襲的、伝統的、呪術的な価値感から脱す事を意味するわけだが、その探究心の根本には、急速な近代化(そこには、グローバル化やリスク社会化の影響も多分にあるだろう)が我々の、行動様式やコミニケーションを新しく、なおかつ複雑に【変えている】のではないかという前提があった。

つまりわたしは、人間は環境に適応していくものであり、適応の結果、高度に複雑化したコミニケーションと、今まで存在し得なかった種類の欲求が生まれ出ているのではないかと思っていた。私の見立てでは、ソレは現に起こっているし、特にコミニケーションの領域では様々な事象を近代化やら再帰的近代化と結びつけて語ることができるだろう。

しかし同時に、昨今の様々な情勢、事象を注意深く観察すると、【新しい状況】は我々を【新しい状態に変質させている】のではなく、【元々の本質的な状態に回帰させている】のではないかと思えてきた。この【新しい状況】とは、言うまでもなく近代化に伴う自由の獲得のことである。

言うなれば近代以前の封建社会の中で、伝統的・因襲的・呪術的な概念から脱していくことは、封建社会の成立と共に、裸の二本足の動物である人間が一枚一枚纏っていった服を、今度は一枚一枚脱がしていく過程のようにもわたしの目には見え始めたのだ。

つまり近代化という衣を着ているのではなく、近代化によって脱がされ、単に人間というもの本質が露呈しているのではないかと思える事象が増えたのだ。わたしは特に、欲望に関しての議論にソレを感じている。そう、われわれは近代以前の封建制度にこそ何か他の動物と違った特殊性を“着せられていた”のではないだろうか?

しかし、まあ、冷静に考えればソレは当たり前なことで、高度に共同体を形成・維持するために必要だったのが、そもそも封建制度であり、伝統的・因襲的・呪術的な概念であったはずだ。それは確かに個人にとっては不自由かつ理不尽な生を強制する側面を持つが、ソレを天秤にかけても維持されるべき共同体の恩恵のほうが人生に対して大きかったのだろう。

 

わたしは「ハムレット」という戯曲は、ハムレットなる登場人物が“行動しない”物語と捉える事ができると考えている。

折しも、我々が“今日”を論じるためには、本質的に“人間の特性”について、考察しなおす必要があるのでは?とわたしは考えていたタイミングである。特に、もし、人間が“自由状態”に生きれば、何を礎に“行動”を起こすのか?という点である。これは、迂遠にではあるが、今日この国の政治状況にも通底する議論であるはずだ。こう書いていて、ふと思い出すのは、ナポレオンの名言で「人間を動かすテコは、恐怖と利益である」と言うものである。指導者が大衆を動かす事が前提の言葉のようだが、この言葉の枕に“私が私という”という文言を冠する事もできるのではないだろうか? 

こう順を追っていくと、私が今延々書き連ねていることは、同時にリスク社会における我々の行動様式に関する議論に近似点を見出すことができるような気がしてきた。しかしソレは紙一重で、その差は人間を【理性的な存在】とみなすか単に【高度に発達した動物】とみなすかの差であろう。

この差も含め、わたしは、この複雑な現代の状況がシンプルにこの鏡に写りこめばいいなと考えている。

 

 



マキーフン!『胎内』

vs三好十郎  @SPACE梟門

Photo by bozzo


作:三好十郎   

 

演出:船岩祐太

 

 【出演】

 

土田祐太、藤井咲有里、遠山悠介

 

 【スタッフ】

 

美術:倉蔵

照明:伊藤泰行

音響:杉山碧(La Sens)

舞台監督:藤江理沙

制作:斉藤愛子

衣装:今須瞳

写真撮影:古川泰子

レタッチ:奥田智美

宣伝美術:川和田将宏

 会場 SPACE梟門

2016年1月27日(水)〜31日(日)

本日、ご覧いただく「胎内」を上演いたします、マキーフンという団体は、

俳優:藤井咲有里が立ち上げたユニットの旗揚げ公演なわけですが。実は私、

昨年の頭から、旗揚げ公演の演出を担当する機会が続いている。

正確なデータがあるわけではないのだが、俳優が主体として創作団体を立ち上げる機会が増えているように感じる。

彼女もまた、自らの表現の【工房(本人談)】を欲し、この団体を立ち上げたわけだが、しかし、ここのところ難しいのは、表現として立ち上がったモノを、俳優自身が客観視する事が永久に出来ないことである。これは演劇と俳優の宿命であろう(ベンヤミン的に言えば複製技術の概念の外にある演劇は、複製の不可能性こそが演劇たる所以だからだ)。そして俳優と団体の宿命であろう。そして、そうした自明性の元、作家/演出家、ないしはプロデューサーの、優しくに言えば「好み」、

ひらたく言えば、「人間感」「世界感」、窺った言い方をすれば「イデオローグ」窮屈な言い方をすれば「演劇感」を体現する事が創作行為の入り口に、または終着点に存在しやすい現代日本の演劇行為において、俳優が俳優自らの【表現】を模索

するということがどういう事なのか、実はこの【俳優主体旗揚げ公演週間】中密かに考え続けている。

藤井に、この「胎内」という作品を、一体どういうふうに「捉え」「上演したいか」という永いインタビューから、わたしの作品創りが始まっているわけなのだが、

当初、演出者としてわたしが気になるのはこの戯曲と現代、あるいは現実とのパースペクティブであった。今日、政治的状況が混迷を極めていく中で、終戦後の混乱のなかでの価値観の転倒を扱った戯曲を上演するという事はどういった意味合いを持ちうるか・・・・・・・。

しかして、藤井は極めてシンプルに、ここにある(描かれた)人間の形相(←わたしの言葉に変換すると)を描きたいのだと返答した。

かつてなら、「おい、もうちょっとなにかないのかよ?」と思ったかもしれない、あるいは思われるかもしれない、だが、実はこの発想は、俳優の【工房】にとっては重要な視座なのかもしれない。おそらく、かれらにとって、重要な命題は「人間」を描く事、あるいは描かれた人間が興味深い存在かどうかという一点なのであろう。

好むと好まざるとは別に、、、、、いや、好まれるものが残り、そうでないものは淘汰されていく、その構図に関しては、抗おうにも太古の昔からあるるわけで、その中で何が皆様に好まれるのだろかうと、大海から財宝を引き上げるように探り当てていく事も興行である以上重要なことだろう。しかして、この団体は藤井の個人的な【工房】である以上、おそらくそうした性質は持たない、藤井が面白いと感じた人間そのものの形相を【演劇を使って】追求するなら、それはそれで藤井の

カンパニーにしかできない演劇的な可笑しみをこの大海の中で追求できるのではないだろうか?

その意味で、この戯曲に描かれた人間の形相が面白い、そしてというなら、そいつに乗っかって見ようというのが、ひとつわたしの方針になっている。

 

本日はご来場いただきまして、誠にありがとうございます。



2015



F³ 『楡の木陰の欲望』

vsユージン・オニール  @SPACE 雑遊


『楡の木陰の欲望』

~E.オニール「楡の木陰の欲望」より~

◆公演期間2015年10月28日(水)~11月1日(日)◆

◆会場 SPACE雑遊◆

 

 

【キャスト】

福圓美里(クロジ)

藤波瞬平(Studio Life)

松本光生

間瀬英正

 

【スタッフ】

原作:ユージン・オニール

構成・台本・演出:船岩祐太(演劇集団 砂地)

美術:倉蔵

照明:富山貴之

音響:杉山碧(La Sens)

舞台監督:小林直幹

演出助手: 細谷奈央

制作:斉藤愛子

主催:F³

本日は ご来場いただきまして ありがとうございます。

なにより、あたらしいユニットの誕生に立ち会っていただけましたこと感謝いたします。

F³は、船岩と福圓の二人だけの小さなチームです。連続した集団の継続を目指しているというよりは、ある『作品』を上演するためのチームです。次回、いつになるかはわかりません。しかしまた我々の表現欲求が澱のように溜まってきたころに新しく『作品』の作ることになるかと思います。

今回、ユージン・オニール(1888~1953)の「楡の木の欲望」(初演1924年)を材にとったわけですが(原作をご存知の方には大胆に刈り込んだことがお分かりになるかと思いますが)。この作品はオニールが生きた時代にあえて1850年代を題材に書いています、我々が戦中/戦後を現代演劇として書くのにも似た時代の距離感です。我々は作家であるオニールが、あえて70年も昔を題材にしたのは、オニールはオニールの生きた【現代】を描こうとした時に、【現代】という時代状況の複雑さに縛られた現在の人間を、その複雑な状況から引きはがすことによって赤裸々な人間の形相を描こうしたのではないかと推察しております。時代状況が複雑になればなるほど、人間はシンプルな法則によって行動しないように思うのです。

今日に生きる我々はオニールの生きた年代のアメリカよりも、おそらくもっと複雑な状況に生きています。リスク社会はじめ、様々に時代を名付ける呼称が登場しすさまじいスピードで消えていきます、その複雑さの中に我々は居ます。

 

この戯曲は非常にシンプルなものです、しかしオニールがあえて異文化(たとえば、私達が1945年の戦後を描けば、それは全くの異文化でしょう)を描いて、今日を描くという試み同様、我々も、もはや古い映画でしか見受ける事が出来ないような時代設定の異文化の戯曲の中に、非常にシンプルな今日の我々の形相が見つけられるのではないかと私は思っています。

 

間もなくの開演です。

堅苦しい文章になりましたが、何より、上演を楽しんでいただけると幸いです。

 

                            F³ 船岩祐太/福圓美里

 

• なお上演台本につきましては、菅原卓(現代世界戯曲選集)、菅泰男(オニール名作集)井上宗次(岩波文庫)と原文(Three Plays: Desire Under The Elms, Strange Interlude, Mourning Becomes Electra (Vintage International))を参考にしながら作成いたしました。此処にて御礼申し上げます。




演劇集団 砂地『唄わない冬』

新作描き下ろし   @SPACE 雑遊


CAST

小瀧万梨子(青年団)
今國雅彦(TEAM HANDY)
梅村綾子(文学座)
井手麻渡(無名塾)
松本光生

STAFF
作・演出:船岩祐太
美術:松村あや
照明:松本大介
音響:杉山碧(La Sens)
衣裳:正金彩(青年団)
舞台監督:白石英輔・鈴木政憲(クロスオーバー)
演出助手:國松卓・細谷奈央
宣伝デザイン:コンドウダイスケ
制作:河本三咲 小池陽子

 

【協力】
青年団/㈲アゴラ企画・こまばアゴラ劇場/㈲レトル/TEAM HANDY
文学座/無名塾/㈱仕事
松本デザイン室/La Sens/クロスオーバー/C-COM舞台装置/大塚組
地林坊・太田篤哉/S-CASE

助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)

主催:演劇集団 砂地

 私は7 月の末にこの文章を書いている。印刷所がお盆で閉まってしまうからだ。制作からこのスケジュールを

告げられた時私は青ざめた。皆様がこの文章に目を通すまでに、ゆうに3週間以上の時間の経過がある。この文章の難しさは出来上がった作品に対する注釈文ではなく、出来上がろうとしている作品に対する不必要な注釈文であり、なおかつ不特定多数の皆々様が読むことになる文章だからだ。そんな事はあたり前だと言われるだろうが、実は奇妙に難解な行為なのではないかと私は思うのだ。

 あまりに、何を書いていいのか解らなさ過ぎて、以前に書いた自分の文章を読んでみたのだが、まるで何かに

おびえているようだ。昨今の犯罪者が「私」を語る際に、「私」に向けられた様々なまなざしに対して様々な注釈

をしていくようなアノ冗長さを自分の文章に感じている。まるで、誰にも嫌われないようにしているかのようだ。

ある事を書けば、そのある事をある特定の種類の人間は違ったふうに受け取るのではないかと仮定し、その仮定に対してまた説明を繰り広げていくという、数匹の蜘蛛が偶然同じ場所に作った結果誰のものか解らなくなった巣ような文章になっているからだ。

 今日、事象を観察し、それに対して意見を発表するという事が、実際は立場を表明する事にしか繋がっていな

いという不可思議な時代状況になってきたように私には感じられ、また、立場を異にする他者に対して状況を改

善するための意見の有効な提示方法を喪失しつつあるように思わる。逆に言えばそうではない時代がはっきりあったかどうか定かではないが、変化する社会状況のなかではその齟齬がはっきりと衆目にさらされるようになっているとも言える気がする。しかし、上演行為はある定点からの観測を、立場を異にする不特定多数の人間が観賞するという自明性からは逃げられない。その不特定多数に向けて、意見の発表でもなく、立場の表明でもなく、作品の上演の前に邪魔にならないような気軽な読み物を書かなければと思うと、どんどんと難しく苦しく、冗長な文章となってくるのだ。マクロな視点に立てばこれは近代以降、いや後期型の近代の先進国の憂鬱(再帰性)という事ができるかもしれない。「私」に対する、まなざしは常に変化していく、そのスピードが異常なまでに早くなったときに、変わらない私に対するまなざしを求めるのも、またその憂鬱が生む副産物のようなものなのだろう。そして、きっとこの文章の混乱もその副産物だ。

 この度は、久々に描き下ろし新作であるが。今度はその事について書いてみようと思う。

 以前、とある高名な俳優に「何故、(戯曲を)書く事ができるのか?」と問われた事があるのだが。私は、自分

はめったに書かないし、作家ではないという奇妙な自覚がある事を前置きに「古典作品ばかりやっていると、古

典作品の構造では描けない現代性のなにかが溜まってきて何年かに一度書きたくなるんです」と答えた。それはあたかも時間が立ちすぎた食品の瓶の底に溜る白い沈殿物のようなもので、しかもどちらかと言えば、自分の事と言うよりは、私の親しい人たちの人生の経験が、この翻訳劇のような、あるいは砂時計を何度も何度もひっくり返していくような作品書く力になっている。

 この文章の混乱はもしかしたら、私ではないのに私が書いてしまった私にとって他者との距離をまだ測りかね

ているからかもしれない。

 なんじゃ、こりゃ・・・・・この文章の為の文章を書くという奇怪な文章になってしまった。

 この文章が皆々様の視線に入るころには、この上演は(あるいは局地的すぎるかもしれないが)今日を切り取ったものになっている筈だ(いや、そうしたい!!)。その今日の形相とそれを眺める自分自身との距離を楽しんでいただける作品にしたいと思っている。

 本日はご来場、まことにありがとうございます。



ハツビロコウ『セルロイド』

VS鐘下辰男  @SPACE 雑遊

ハツビロコウ旗揚げ公演

 

『セルロイド』

2015年3月18日(水)~22日(日)

 

◆脚本 鐘下辰男 (演劇企画集団 THE・ガジラ)

◆演出 船岩祐太 (演劇集団 砂地)

 

【出演】

岩野未知/松本光生/内田健介/吉田裕貴

 

 

【スタッフ】

演出助手 大道朋奈/音響 杉山碧(La Sens)/照明 富山貴之

舞台監督 藤江理沙/美術 倉蔵

 

【公演会場】

SPACE雑遊



2014

演劇集団 砂地 『3crock』

vs  河竹黙阿弥  @吉祥寺シアター


【キャスト】

高川裕也

中村梨那(DULL-COLORED POP)

日下部そう(ポカリン記憶舎)

小野健太郎(Studio LIfe)

野々山貴之(俳優座)

とみやまあゆみ

庭山智行

浦川拓海【ラッパ屋】           

小瀧万梨子(青年団/演劇集団 砂地)

尾崎宇内

 

【スタッフ】

原作:河竹黙阿弥

構成・演出:船岩祐太(演劇集団 砂地 主宰)

美術:松村あや

照明:松本大介(松本デザイン室)

音響:杉山碧(LaSence)

衣裳:正金彩(青年団)

舞台監督:森山香緒梨

演出助手:浅井裕子

制作:河本三咲

プロデューサー:小池陽子

本日はご来場いただきましてありがとうございます。

実はだんだんと、ここに載せる文章を書くことが難しくなっている。もっと言うと私は、チラシの煽り文を考えるのが非常に苦手だ。「震災後の近未来」やら「アクション群像劇」といった内容で宣伝しているわけだが、この言葉がこの作品に適切(創ってみたら、なんだか違うような気もしてきたし)か、いや、適切に我々が抱いている概要を受け取ってもらえる文言かどうか自信が持てなくなっているからだ。それらの導入が作品と向き合っていただくときに適切かどうかが非常に疑わしくなっているような気がしてしまうのだ。この文章ですらそうだ。じゃあ書くなよって言われそうなんですが、何かを書かなくてはならないような気がするのです。

 

 

安政七年(1860)に初演された、『三人吉三廓初買』を原作(モチーフ?)とした作品の上演であるわけなのだが、なんと154年も前の作品である。初演から154年間の間に様々な歴史的事象があり、生活様式も価値観もさまざま変化している。一人の人間が生きることのできない時間ではあるが(25歳ぐらいで子供を産むとして)46代ぐらい前の世代が存在したに過ぎない。154年の間に、日本の近代化があり、終戦(約70年前)があり、高度成長経済があり、冷戦があり、その終焉(約25年前)があり、バブルがはじけ(約20年前)もたっている。震災も(3年前)あった。そしてそれらの出来事を人生のどういうタイミングで経験したかという事が、何事かの事象をどう受け取るのかの多様性を産んでいる。こいつは当たり前の事で歴史の伝達とはそういうものだと思う。そんな154年を経て、黙阿弥の原作と向き合うわけなのだが・・・・・安政七年というのはもちろん江戸時代であり、近世と呼ばれる時代で、その後“近代”という時代区分を経て我々は現時点に立っているわけなのが、ある側面からみるとこの時代の変化の中で重要視されてきたのは“私”という概念であろう(ちなみに私は狭義のゆとり教育を受けた世代なので、特にそれを感じる)。それは共同体や、思想、信仰、もっと言うと一個人の生や死の在り方といった因習的概念からの自由化の中で生まれた側面で、結果、制度という抑圧からの解放ではなく、選択の自由化として我々のコミニケーションやそれに伴う身体性に影響をしている。今日のコミニケーションの困難は「私がどう思ったか」や「どうやって私の考えを発信するか」ではなく「どういう状態の他者(こいつは不確定で、正解がなくて、おまけにすぐ変化する)に、どういう手段をもって、私の存在を認識させるか」という事なのではないかと思うのだ。そんな時代にどんな方法で希望を、先行きを、展望を語れるのか・・・・・・・・私は、まず、他者を自由(当事者になると自由ではなくなるので)な“私”の視点で見つめる事が必要なのだと思うのです。なんのことやら書いていても自分で解らなくなったのだが。何のことはないのです、要は、楽しんでいただけたら幸いです。という事を言いたいのです。。。



2013

演劇集団 砂地『Hedda』

vs H・イプセン  @SPACE 雑遊

【CAST】

稲葉能敬(桟敷童子)
小山あずさ
岸田研二
小瀧万梨子(青年団)
如月萌
杉森裕樹

田中壮太郎

【STAFF】

作:ヘンリック・イプセン
構成・演出:船岩祐太
美術:倉蔵
照明:三浦詩織
音響:杉山碧(La Sens)
衣裳:正金彩(青年団)
舞台監督:山下由
演出助手:水谷友香梨
宣伝美術:コンドウダイスケ
制作:河本三咲
プロデューサー:小池陽子



シアタートラムネクストジェネレーション『Disk』

新作描き下ろし   @シアタートラム

◆作・演出  船岩祐太

◆出演

田中壮太郎(俳優座)

小瀧万梨子(青年団)

藤井咲有里

野々山貴之(俳優座)

中村梨那(DULL-COLORED POP)

岸田研二

 

◇スタッフ

美術:倉蔵

照明:松本大介(松本デザイン室)

照明操作:三浦詩織

音響:杉山碧(La Sens)

舞台監督:金安凌平(株式会社CUE)

演出助手:浅井裕子

宣伝写真:コンドウダイスケ

企画製作:世田谷パブリックシアター/演劇集団 砂地

       近代とポスト消費社会の行方と俺

 

・・・・なんて大上段に構えたタイトルを掲げてみたが、ちょっとかっこつけてみたかっただけです、ごめんなさい。正直締め切りに迫られて、大雪の日に一生懸命、書いてみてますが、大した内容じゃないんで、読み流してください。というわけで、新作の公演でござる。しかも「世田谷ネクストジェネレーション」という企画での公演でござる。初めまして、船岩でございます。はい。はい。はい。この度、砂地としては初めて企画公演での上演でありまする。そのため、何度も自分やら砂地やらのプロフィールを要求されたり、確認させられたわけなんですが。そして、この文章もそういう類のものにしようと思ったんですが、どうも私はそういうのが得意ではないらしい。というか、恥ずかしくなってしまいますのだ。原則的に、自分の事を自分で書かなきゃいけないんだけれども、それってみなさんどうやってるんですかね?「私はミステリアスでクレージーな作品を創っています」って仮に書くとするじゃないですか?それって、自分の自覚と、他者からの視点は一致するんでしょうかね?あれ?一致しなくてもいいものなんですかね?たとえば、自分はこうなりたいですって願望(クレージーな作品を創りたい!!)だけ書いてもダメでしょ?かといって客からの評価(ミステリアスな作品に見えるらしいよっ)ってのもだめよね?きっと?どうなんですかね?そういう文章を○百字でお願いされると、ほんとに悩まされてしまいます。就活の自己アピール欄なみに真剣に悩んでしまいます。鬱になる気持ちも解らなくもないですな。なもんで、結局、いっつも制作なんかに丸投げしちゃうんですけどね・・・・・・でも、頑張って自己紹介すると・・・・・・砂地は古典戯曲を媒介とした作品作りを標榜としている団体で、まあ 古い作品を“今”に引き寄せた時に何が見えるか、みたいなことをやってるつもりなわけなんです。たまぁに新作もやりますが。はい・・・・ちなみに、プロデューサーが女性なもんで、女性が中心の作品を上演することが多いんですわ。そうそう、最近思うのは、古典作品って、ファム・ファタールと形容されるような悪女がよく出てくるんだけれど、昨今、そういう女性を“今”に引き寄せるのって簡単なようで、すごく難しいって事なんですね。なぜなら、この人たち、基本的に自分一人で立っていようとしないからです。ちなみに、ここで“今”っていうのは、要は私と同じ同時代感覚の話なんだけど、私の感覚を“今”の指標としたときに「いやぁ、こうなる、こうなる」みたいな事である。最近、近代劇であるストリンドベリの「令嬢ジュリー」やカレル・チャペックの「RUR」なんかを上演してるんだけど、“近代”と日本の“現代”との異差を考えた時に、当時の登場人物の“なにか”を現代風に稽古場で解説することは非常に容易な作業である。なにせ、理論上は我々はその時代を経てきたはずだから。しかし、稽古場で作業をしていると、近代勃興期の人々と我々は何が違うのか訳が分からなくなってくる。私の感覚って話を広げると、私は1985年生まれで、そういう私たちをくくる言葉としてよく出てくるキーワードは狭義の「ゆとり」ってやつですわ、ちなみにぎりぎり、私もゆとり教育なんて名前の新自由主義的な社会を前提とした教育方針の中で育ってまして、「自分探し」っていうやつの海にぶちこまれているわけなんです。自由競争の世界の中でその海は深くて広い。ちなみに、自分探しってやつをどうこうって論説は、“消費”を論じる論説のなかから80年代(あちきが生まれた年代です)ぐらいにはもう出始めていて、人々は消費という行動の中で“自分”を確立しようとしたりしなかったりしたらしい。で、もっともっといえば“近代的自我”の問題らしい。どうも近代以前の時代には“私が何者であるか”を社会があらかじめ決定してくれていたらしいのです。それが、そうではなくなって・・・・・やばい、なんか当たり前な一般論になってるね、この原稿。昔、ありきたりな一般論なんか描くんじゃねぇって怒られたのがトラウマで・・・・・あの時も一生懸命書いたのに・・・・・・ちょっとまってちょっとまって・・・・・・えーと。この原稿はファーストフードで書いてるんだけれど、隣の二人組の女の子(どうも片方が既婚者らしい)が「なんで結婚したのか」って話で盛り上がってるんですよさっきから、いや、なんでって?なんだろう。そうそう私、諸先輩方と話してて思うのは、我々って“なんで”それを始めたかって事を言えなければダメだっていう強迫観念に迫られているような気がするんですね?たとえば音響さんだったら、私が何故音響を志したのかを言えなきゃみたいな。原則的に選択の自由が我々にはあるわけでしょ?だから、なんでそれを選んでたって良いわけじゃない?なのに、何故それを選んだか言えないと自分がダメ的感覚に陥るのはどういうパラドックスなんですかね?ちょっと、まて これは自己紹介だ、話がそれてる、そうだ、自己紹介なのだ。私を皆様に紹介しなければ、どうも、このネクストジェネレーションという企画がそういう意図らしい、若い世代の劇団を皆様に紹介するって事が一つの目的らしい。そーねー、あれだ!!この原稿、代わりに書いてくれませんかにゃ?砂地ってこういう集団で、船岩ってこういう人ですって。でもさ、きっと過去の経歴やらなんかがちょこっと載るんだろうなぁ・・・・でも、それぐらいしか書くことないからなぁ、べつにそんな有名じゃないし、肩書もないし。最近、師匠の公演にスタッフで入ってる時に、たまたま何かの雑誌に公演が紹介されていて、師の事をウィキペディアの内容まんまで紹介されてるのを見てひとりで笑ったんだけど。そうか有名になれば、誰かが勝手に自分の事を語ってくれるのか、それか、それだなきっと。どうかそれを待ってください、皆様。はい・・・・・・・まて、まて、まて、でもそれに耐えられるのかな?俺。てか、この原稿後ですっごい後悔すんだろうなぁ、すげぇ迷いながら書いてるから、絶対忘れない気がする。

 

 



2012


演劇集団 砂地『RUR』

vs カレル・チャペック  @上野ストアハウス

◆CAST
田中壮太郎(俳優座)
井上裕朗
伊澤玲(北区AKTSTAGE)
酒井和哉
藤波瞬平
藤尾姦太郎(犬と串)
藤井咲有里
小瀧万梨子(青年団)
植浦菜保子
鈴木啓司(劇団銅鑼)
如月萌
中村梨那(DULL-COROREDPOP)
國松卓
八幡泰広

◆STAFF
美術:倉蔵
照明:和田東史子
音響:杉山碧(La Sens)
舞台監督:山下由宇
演出助手:浅井裕子
宣伝美術:コンドウダイスケ
制作:法龍院悠・河本三咲
プロデューサー:小池陽子